原田進親方が左官職人の道に進んだきっかけ

親父が農機具の仕事をしていた頃、自分が1歳の頃に「今後は左官の時代だ」と言って左官業を始めることになりました。親父の仕事を見ていたため、左官業は大変な仕事だと理解しており、正直、最初はそれほど興味がありませんでした。そこで、当時の原田進少年は設計士なったらかっこいいという憧れの元、大分県立日田林工高等学校の建築科に進学しました。
高校卒業後、自分は建築設計事務所での就職を希望していました。しかしある設計事務所の所長から、「現場を知らないと図面を引くのは難しいでしょう。現場経験を積んでから、うちに来たら」とアドバイスをいただき、その言葉に納得しました。家業である左官の仕事を始めるのが最も手っ取り早い道だと思いました。親父とその所長がつながっていることも知らずに…
まんまと親父の思惑通りの形で左官の道に進むことになりました。

そして4年間の精進の末、壁を塗る技術を習得し、面白さを見出しました。そこで、上級クラスの左官を目指す学校への進学を決意。熊本県立職業訓練短期大学校左官科に入学し、高度な左官技術を習得する3年間が始まる予定でした。

擬洋風建築と淡路島のカリスマ左官 久住章さんとの出会い

憧れていた左官の世界は、壁を塗るだけでなく、美しいレリーフを造り上げるとても魅力的なものでした。特に、明治・大正時代の擬洋風建築のレリーフに心惹かれ、その道を進む決意を固めました。1年生の終わりに、業界雑誌「左官教室」で、素晴らしい擬洋風の仕事を手がけていた久住親方の存在を知りました。その惹かれる想いから、思わず400ccのバイクにまたがり、兵庫県の淡路島へ向かいました。国道3号線から2号線を通り、明石からフェリーに乗って、海を渡りました。約700㎞の道のりです。
しかし、親方はちょうど京都の仕事に出かけており、会うことは叶いませんでした。親方の奥様やお兄さんにお会いするも、「残念やね、なんで連絡して来んの?」と笑われる始末。久住親方には会えないまま九州に戻りましたが、久住親方のいる淡路島への思いは募るばかりです。
熊本に戻ってからは、職業訓練短期大学校の先生にその思いを打ち明けました。「オレは行きたいところを見つけたから、淡路に行きたいんです」と。ところが、先生は「3年あるけん、ちゃんと卒業してから行きなさい」と。先生の説得に1年を費やしましたが、結局、2年生の終わりまで学校に残り、3年生には進まず、4月から久住親方のもとで住み込みで学び始めることになりました。その前の2年生の11月頃には、親方にきちんと連絡を取り、初対面ながらコテの使い方を教えてもらい、「いつでも来て良い」と言ってもらいました。その瞬間の喜びと感激は忘れられず、淡路島へずっとおりたいと思っていましたが、なんとか我慢しました。

名匠 久住章さんの元で擬洋風のレリーフと新しい左官技術を学ぶ

左官技術への溢れる情熱をもって、淡路島の高度な技術を使う町場左官の現場で、仕事を教えていただきました。
ようやくその年の暮れに、憧れていた擬洋風の応接間の仕事に携わることができるチャンスが訪れました。地元の社長邸の応接間、広さ15畳を8カ月かけて仕上げるプロジェクトでした。その仕事をしているときは、楽しすぎて寝るのを忘れるぐらいに壁を塗っていました。このプロジェクトでは、明治・大正時代の銀行のような擬洋風装飾を、内壁や天井に漆喰と石膏を使い、丁寧に施工しました。結局、1年と2、3カ月の間、久住親方のところにお世話になりました。

その後、まじめな原田少年は、長男であること、また親父との約束を守るため、日田に戻り、親父の元での修業が始まりました。左官の仕事は、一般の住宅を手がける「町場」と、工場や学校などのコンクリートビルの建設現場を担当する「丁場」の2つに大別されますが、当時の原田左研は両方の仕事を請け負っていました。
いわば地味な仕事が続きます。黙々と作業に取り組む中で、ときおり久住親方から「すーちゃん(原田親方の愛称)、面白い仕事が始まったぞ」という連絡が届きます。そしたら久住親方の元に馳せ参じ、溜まったフラストレーションを解消するかのように壁を塗り、腕を磨く日々を送ります。久住親方の久住親方の造形力や仕上げに刺激を受けながら、自分もどんどん、腕が上がっていくのを感じていました。

全国から久住親方の元に集う全国の職人たちと切磋琢磨の日々

そんな久住親方の元には全国から腕自慢の職人たちが大勢いました。お互い負けられないということで火花バチバチの壁の乾きが早くなるんじゃないかと思うぐらいの熱気がありました。
一方、関東、関西、九州など全国から集まっている職人たちはそれぞれのやり方を持っていて、技術交換もあり、お互いの良いところを吸収していく機会にもなりました。
そうして年間6カ月ほどは久住親方のところと日田を行ったり来たりしながら約7年間、多くの知識と経験、技術を教わりました。
その後、親方の教わった技術を大分でもやりたいと思い湯布院町にある擬洋風建築「旧日野病院」の修復に取り組むことになりました。旧日野建築について詳しい記事はこちらから

「あいだを塗る人」ということ

福岡県の香椎(かしい)にある「清法山 徳純院 納骨堂」の仕事をさせていただいた時のことです。
「ふわふわっとした感じにしようね」という漠然としたイメージのみで、図面はありましたが、細部に関しては未定でした。みなさんのイメージする納骨堂は暗い雰囲気という感じでしょうが、自分は「ご先祖様がいるところやから、お弁当広げて食べてもいいんじゃないかな」と思い、お母さんの胎内みたいなイメージにしようということになり、アールヌーヴォーのようなふんわりとしたイメージが沸き上がりました。
そのイメージを作るために、天井を赤い平和土(福岡市南区平和で採れる赤土)と漆喰を配合して淡い桃色に塗ってみました。畳の上には黒い仏壇が並んでいて、天井の梁は漆喰で塗られ、ふわっとした形の天井が淡い桃色。
その天井と畳の間の空気が、形容がし難い「ふんわりいい感じ」という空間になりました。そこで自分は「ああ、オレはこれをつくりよったんやね」と気づきました。原田左研の掲げる”壁を創る人” “壁と壁の間を塗る人”という意識が芽生えた瞬間です。

日本の左官職人とドイツのデコレーションマイスター

実は自分は2001年から2011年までの10年間、ドイツのアーヘン工科大学のサマーセミナーで講師を務めました。
ことの始まりは、アーヘン工科大学で建築を教えておられたマンフレッド・シュパイデル教授が、久住親方の知り合いだったんです。最初は久住親方が講師をされていて、僕はお手伝いで付いて行く形だったのですが、そのうち「すーちゃんもやってみる?」ってことになり、毎年夏に建築のワークショップをやってました。下地ができた段階で、学生の中塗り上塗りのリクエストに応えて、自身の日本左官技術を披露し、それを学生さんたちにやってもらうという内容でした。
学生相手のほかに職人向けのセミナーも行っていました。ドイツにはデコレーション(装飾)マイスターがいて、それこそ自分が憧れたバロックやロココ調のデコレーション技術は素晴らしい、ところが、コテ1本で綺麗に壁を塗るという点においては、日本の左官技術がとても優れているということが分かりました。初めて行く南ドイツでマイスターとの教会の修理工事で2カ月半くらい過ごしたこともありました。とても面白い出来事で、これもまた後日、記事にできたらと思います。

「喜び整う」それが土壁の魅力

土壁の魅力というのは、首から下が喜ぶ、ということだと思っています。首から上は美味しいものを食べたい、好きな音楽を聴きたい、そういうことが喜びですが、首から下は、首から上が摂取したさまざまなものを受け止めないといけない。そんな首から下が喜ぶこと。それは今よく使われる言葉でいう「整う」だと思います。土壁ならではの調湿機能等は科学的に数字で出ますが、それ以外の見えない物の働きがあるのではないかと思っています。
福岡市内のある現場で花壇の立ち上がりの壁の部分に土を塗ったことがありますが、通行する人が何人も何人も、すーっと土に触れていくんです。多分、無意識に触っているように見えました。あれはとても感動した出来事で、それは「体が安心し喜んでいる」ということだと感じました。だから今、原田左研でのテーマは「土を人に近づける」
その手段としての”土の塗り壁”だと思っています。

左官も時代とともにバージョンアップせないかん

この今の時代、なんでもバージョンアップしています。進化のスピードが速くなってきた。原田左研公式ホームページも2023年にリニューアルしました。そんな中で左官もバージョンアップをしないといけない。だが、それだけではなく自分は久住親方から左官との向き合い方や技術などさまざまなことを受け継いできました。それを弟子に伝える。そして弟子がまたその弟子に伝える。だから自分の弟子たちには「弟子が来るようになったら絶対に拒むな」と言っています。受けて、先につなげる。それが親方と自分、そして自分と弟子たちとの約束だと思いながら、あいだを塗る人というテーマに壁を塗り続けています。

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